「苅萱道心石童丸御親子御絵伝」のあらすじ


 今からおよそ800年前、九州6ヵ国の国守加藤左衛門尉重氏は、世の無常を悟り、京の黒谷に登って法然上人の弟子となり13年。ある夜、延命地蔵尊のお告げを受け、高野山へと入られました。国に残された千里御前は、男児を出産し、「石童丸」と命名。石童丸13歳の春の頃、父恋しさをつのらせ、母とともに父を尋ねて黒谷へ、さらに高野山へと長い旅に出られました。
 当時、高野山は女人禁制のため、石童丸は麓に母を残し、父を尋ねて高野山に入ります。山内をさまようこと3日3晩の後、奥の院無明の橋で花桶を下げた僧に出逢いました。この僧こそ父・苅萱道心でした。道心は、石童丸がわが子であると知りますが、今は仏に捧げた身のため、名乗ることは出来ません。
 「尋ねし父は、既にこの世にない」と石童丸に告げ、山を下りるよう論します。山を下りてみると、母は、長旅の疲れからもはや帰らぬ人となっておりました。悲嘆にくれ、泣く泣く国に帰れば、姉千代鶴姫も亡くなっておりました。そこで、石童丸は再び高野山に登り、苅萱上人を父と確信しつつも、師僧と仰ぎ、弟子となり、信照坊道念と名乗り、34年間ともに修行されました。
 ある日、苅萱道心は、善光寺如来に導かれて信濃の地に下り、草庵(今日の苅萱山西光寺)を営み、日々善光寺に参龍なさること14年、一刀三礼の地蔵尊を刻まれ、83歳で大往生を遂げられました。
 道念は、父苅萱の往生したことを悟り、当山へ移り住み、父の菩提安かれと苅萱塚を建立されました。ご自身も一刀三礼の地蔵尊を刻み、その後も念仏に励まれ、苅萱道心入寂2年後に63歳で極楽浄土に赴かれたのであります。
 そもそも、このお二人は、乱世の衆生を救わんと、弥陀の遣わし給うた菩薩の化身にして、常行念仏の偉大な尊者であり、お二人が刻み給うた親子地蔵尊は、当山の御本尊として祀られ、いまなお多くの方々の信仰を集めております。